父の遠距離介護日誌U
超高齢となりいよいよ衰えてきた父への遠距離介護の様子を五行歌とともに綴ります。
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母の遠距離介護五行歌…詩のみ
父の遠距離介護五行歌…詩のみ
母の介護のときは
父が出迎えてくれた
実家への道を
リュックを背に
一人急ぐ
父の体力が衰えているので、窓からの冷気を防ぐため、カーテンを遮光カーテンに取り替えました。夜間も明るい雰囲気になるよう明るい色にしました。全部遮光カーテンにすると朝日が入らず、朝が遅くなる可能性もあるので、一部遮光以外のものも残しました。
また、レースもやや断熱性のあるものと、部屋の中が見えないよう遮蔽効果のあるものに代えました。常に少しずつ改善を加えて行くと、継続的にフォローされているという安心感があるようです。但し、歳を経る毎に、して貰っ たことを直ぐ忘れてしまうようですが・・・。
もうこれ以上
ひとり暮らしが
無理なのは分かっていても
なお父のため
懸命に寒さ対策を考える
母が生きていた頃貼り替えてから久しく貼り替えていなかった障子を貼り替えました。帰京の時間が迫ったこともあり、引き手の部分は父の作業として残しました。畳と同じで、張り替えが終わると家の中に清潔な雰囲気が漂います。父も大変喜んでくれました。
もうこれが最後だなと
思いながら
実家の
障子を
貼り替える
たまたま父と話をしていたら、戦争中のラバウルの話が出てきました。老人は昔の話をすると、生き生きと過去の世界へ入って行きます。少しでも刺激になればと、東京の地図専門店でラバウルの地図と世界地図を購入し父にプレゼントしました。
日本から遙か離れて、オーストラリアの隣のラバウルの位置を眺めると、よくぞこんな所まで攻めて行ったものだと呆れます。父がヘルパーさんにもラバウルの話をしたようです。
寒くなって外に出ないのと、椅子に座ったままの生活が長くなったせいか、足の付け根の大静脈が詰まって(深部静脈血栓)股から下が腫れ上がってしまいました。訪問看護婦さんが早期に見つけて入院させてくれたので、大事には至りませんでしたが、いよいよ来るものが来たという感じです。
取り敢えず血栓の治るのを祈るばかりですが、入院による体力低下で自活出来なくなったらどうしようと、目の前が暗くなります。
亡き母を
父と共に
始終見舞った病院へ
父を激励しに
訪れる
見舞いに行くと、ほとんど老人だけの6人部屋にいました。健康な人間なら耐えられな臭気の満ちた環境の中で94歳の父が頑張っていました。また元気にならなくてはいけない、体力を落としては一人では生きていけないと、気力だけは維持しているのが分かり、済まない気持ちになりました。
本人の気力と、医師が「体力を落とさないうちに早く退院させた方が良い」と二週間ほどで退院させてくれたので、心配ではありましたが助かりました。
●孫の結婚式
退院した数日後、父の孫(姉の娘)の結婚式がありました。このお祝いの席で手品をやりたいと言うのが父の楽しみの一つで、そのお陰で早く退院出来たと思います。
当日は足に血が溜まらないよう、皆で何度もさすってあげながらの出席となりました。二週間の入院ですっかり体力が落ちていましたが、孫のための手品も無事済ませることが出来ました。私も父に合わせて一つ披露しました。
高齢の父の
趣味に合わせ
手品を習い
今共にある
命続くことを祈る
●物置屋根貼り替え
10畳と5畳ほどの物置の屋根のトタン板がボロボロになっているのを父がずっと気にしておりました。また私も台風の度に心配してましたが、雨洩れがひどくなったので意を決して貼り替えることにしました。
自力では無理かとも思いましたが、介護にお金が掛かっているので自分で貼り替えることにしました。往復の時間を差し引くと、実働何時間もない土日だけで撤去・復旧を終えなくてはいけないので大変でした。
着いた日は真っ暗になるまで、翌朝は朝五時から作業して疲労困憊で屋根から落ちそうになりながらも何とか張り替えました。父も大変喜んでおりましたが、私も心配の種が一つ減りました。
●日除け
今回は日除けを作りました。私の田舎は西日が強く当たり、健康な者でも耐えられないような暑さになります。去年まではよしずを立てかけておりましたが、最近の異常な暑さでは効果もないし、何と言っても見通しを遮るものは防犯上良くありません。
ずっと、遮光ネットなどを張れないか考えておりましたが、父が「みっともない!」と反対するので張れませんでした。今回は、父自身が体力の衰えを自覚していることと、暑い日が続いていたこともあり、何とか納得させて母屋から水平に6*4m程遮光ネットを張ることが出来ました。安上がりですが結構効果がありました。
●腰痛再発
座っているとき足に血が滞ることがないよう、足下に台を置いて高くしていたのですが、そのせいか腰を痛めたようでした。立ち上がるとき激痛があって、立ち上がるまで1時間ほどかかるようです。すっかり機嫌も悪くなって来ました。これから体力を付けないといけないのに困ったことになりました。
真っ黒になっていても
もう自分では
気付けなくなっている
父の足裏を
洗う
幼子のように
両足を投げ出し
はにかんでいる
父の
足裏を洗う
●しびん
夜中も便所に行けないので、尿瓶で用を足すようになりました。自分でやる意志があるので助かりますが、困ったことになりました。訪問看護婦さん達が尿が逆流しないしびんを選んでくれました。
●便所手摺り
腰痛と体力の低下で立ち上がれないと言うので、慌てて便所に手摺りを取り付けました。ちょっと手前に引くと立ち上がれるようです。プロに頼むのも良いですが、この程度のことは、一番身近にいる家族が本人の身になって、試しながら取り付けるのが一番かと思います。下地がない場合は、表面に板を渡せばokです。
●却下通知
ヘルパーさんから介護度変更の診断を受けた方が良いと助言を受けたので、申請・面接を受けました。私の都合が付かなかったので、姉の立ち会いで診断を受けましたが、案の定「要介護1」のままとなりました。
それにしても「却下します」との町からの通知、当然である申請に対し「却下」などと言う言葉を使う神経が知れません。この町を破産状態にした役人が相変わらずお上意識丸出しで、何を言うのかと悲しくなります。
●無力感
父の食が細り、痛々しいほどに痩せて来ました。母の時もそうでしたが、食事が食べられなくなると素人ではほとんど手の打ちようがなくなり、無力感に襲われます。「自宅で最後を看取ってやりたい」などと言う甘い気持ちは直ぐ吹き飛ばされてしまいます。
慌てて東京から美味しそうなレトルト食品を選んで送りましたが、「まずい!」と、食は進まないようです。考えて見れば、レトルトなど、健康な人でもそうそう食べられるものではありません。次回から私も何か料理を作らなければと、一冊料理の本を買いました。
●怒り爆発
今度は定期の介護度見直しの通知が来ました。町の福祉課の担当から電話があり、一方的・事務的に日にちを言って来ました。こちらは休暇(振休)を取得するために、いつも土日出勤・早出残業でやりくりをしているのに…。
ここで、私のここ何年か押さえてきた、怒りが爆発してしまいました。「あんた方は何一つしてくれて居るわけではないのに偉そうに自分の都合だけを押しつけるな!、介護の気持ちが分からない人に福祉の仕事をして貰いたくないんだ!等々。
生きるのがやっとの
高齢者でも
「ひとり暮らしは自立」と
決めつける町に
生まれたのを悲しむ
●しびんでも自立
私の文句に別の担当が面談に来ました。しかし、例えほとんどの小便を尿瓶でしていても「自分でやっていますよね」となります。買い物には全く行けず、食事もほとんど東京から送ったレトルトとなり、それも食べられなくなっていても、やはり「自分でやっていますね」と言われます。
確かに要介護度の表を見ると、ひとり暮らしをしている人は要介護1です。しかし、やむを得ず一人暮らしをしている人は、不十分な生活しているのであって本来の自立ではないのです。回りにいる人達が様々な支援をして、辛うじて維持されているのです。
もし、役人が財政を自分の金のように心配をしているならば、職員の数を減らしたり、給料を下げれば老人を支援する費用など直ぐ生み出せるのではないでしょうか。
役所予算の半分は公務員の人件費だと言われています。杓子定規な判定をして在宅が無理になれば、もっとお金がかかります?国の方針に盲従することが正しいのではないのです。
最近、神奈川県で老健施設の事務長をしている知人に聞いたら、神奈川でも「ひとり暮らしは自立」と言っているのには驚きました。身寄りのない人や、子供が面倒をみない人はどうするのでしょうか?
吸収合併の効果か?
村社会の重しから
解放された気になって
役場職員に
憤懣を投げつける
●現在の介護状況●
現在の父への介護支援の状況は以下の通りです。
●看護婦さん: 腰痛、血栓、足のむくみ、便秘、目眩、肺に水が溜まるなどの症状があるので、週三回看護婦さんを頼んでいます。健康チェック、薬の管理、簡単な体操、入浴の支援などをしてくれています。
●ヘルパーさん: 掃除、簡単な体操などで週三回来て貰っています。
何でもやって貰うと頼るようになるので、補助的なことを中心に支援して貰っています。体力を落とさないよう簡単な体操もこちらの希望でやって貰っています。
食が進まなくなって来たので、今後は食事を作って貰うことにウエイトを移す方向でお願いしております。少しでも美味しいものを食べて、体力を維持して欲しいと願っております。
父がヘルパーさん達に、上手く対応していることもあり、皆さん非常に親身になってやって世話をしてくれています。ヘルパーさんには訪問後、faxまたは電話で報告をして貰うようにしています。
「お父さんに
手品を見せて貰いました」
ヘルパーさんからの
報告ファックス
親父頑張っているな!
●台所デビュー●
父の食が細って来たので、今回から私も帰郷した時には料理を作ることにしました。私は今まで料理はほとんど作ったことがなかったですが、この時に備えて一年ほど前から帰郷と仕事の合間を縫って「男の料理教室」に通っていました。
今回は、料理教室で習ったレシピ通り、鯖の味噌煮や卵丼などを恐る恐る作りました。基本通りなので美味しくできました。父の食も結構進んでいました。しかし今の父は「うまい」とか、「ありがとう」とかの表現が上手く出来なくなっています。
最近は「お早う」の挨拶もこちらから何度も言わないと帰って来ません。表情も乏しくなって来たようです。
●因業親父
今回の帰郷では父の機嫌が悪く、何か話す度に、突っ慳貪な顔をして「ナニッ!」とか言うので、私もすっかり頭に来てしまい、話すのが嫌になってしまいました。父は昔から、多少悪意に取る傾向はありましたが、やはり精神的に余裕がなくなって来たようです。この直後に入院したことを考えると既に体調が悪かったようです。
●腸閉塞
突然父が腸閉塞になり、救急車で入院となりました。一晩一人で苦しんで、やっと電話まで行って私に電話してきました。訪問看護婦さんが父の元へ急行してくれたので助かりました。ちょうど私が帰郷する予定日でした。不思議と帰郷する日は、いつも何かが起こります。それだけ頻繁に問題を起こしていると言えますが・・・。
緊急入院先で、すっかり衰弱して薄目を開けるのがやっとの父に、仕込んだばかりの簡単な手品を教えました。仕掛けのコップを握らせようとしたら、ほとんど力が入らないようなので、ただごとではないのを直感しました。
●父危篤
腸閉塞を安易に考えていたら、父の容態が急変し、入院三日程で昏睡状態になりました。名前を呼んでも、体を刺激しても全く反応がなくなりました。父の最後が突然目の前に迫って来ました。
家に戻って、慌てて大事なものがどこにしまってあるのか調べながら、引き出しの中などを少し整理しました。捨てたら怒るだろうな?と思いながら、父の作った沢山さんの新聞の切り抜きなどを処分しました。
高齢にもかかわらず、役に立ちそうなものを切り抜き、しかもそれによれよれの字で、一々日付を書き込んでいる父を思うと、涙が止まらなくなりました。
生き延びるのが
幸せなのか
分からないまま
やみくもに
父の体を刺激する
「親父生きよ!」と
足裏のツボから懸命に
気を注入する
ツルツルにしてくれた
訪問看護婦さんに感謝する
●応援団
昏睡状態にもかかわらず、普段父を気にかけてくれているいとこやその子供達までが遠方の病院まで、毎日何度も父を励ましに訪れてくれました。
「反応はなくても声は聞こえているはずだから」、「周りの雰囲気を感じているはずだから」と自分の親のように何度も声を掛けてくれ、手足に触ったり、口の中を掃除してくれたりしました(現役の看護婦さんもいるので)。みんなに心配して貰い、本当に父は幸せ者です。
●意識回復
もう駄目とばかり思っていた父の意識と感覚が、入院から十日ほど経過したとき突然瞬間的に回復しました。腸閉塞が治った訳ではないのですが、併発していた肺炎が治まって、瞬間的に意識が回復したようです。少し希望が見えてきました。
言葉にならない
父の
うわ言を
テレパシーで
解読する
葬式費用に
父の預金を
引き出した日
「誰かが貯金を盗んだ」と
突然意識が回復する
「うるさくて眠れん!」
危篤を脱して怒る父
間違いなく
スキンシップは
魂を引き戻す
●拘束
意識が戻ると同時に、ベッドから降りないよう、腰バンドで拘束されるようになりました。また、両手に手袋をはめられるようになりました。
折角時々意識が戻るようになったのに、また駄目にされてはと、手袋を外して懸命にマッサージをしました。父は拘束されてひどく傷ついたようで、さかんに「若い奴らが俺を押さえつけて縛った」と声にならない声で訴えていました。
「若い奴らが
俺を押さえつけて縛った」と
意識朦朧の中で訴える父
老人を恐怖で打ちのめす
拘束は暴力だ!
拘束されて
虫の息でも
まだ
生きなくてはならないと
もがく父
●鎮静剤
昼間はそうでもないのですが夜になると興奮状態になり、時々鎮静剤の注射を打たれるようで、翌日はもう昏睡状態で全く反応しなくなります。仕方がないかも知れませんが、家族からすると必死で看病しているのに安易に眠らせて衰弱させてしまう以外に方法はないのか、手加減は出来ないのかとどうにも切ない気持ちになります。
昏睡から
覚めるや否や
鎮静剤を打たれる父
見舞いで
鬱になる
どうしても救いたいと
医師に食らいついていた
母の時とは違い
どこか淡泊な自分を
父に詫びる
●両手拘束
胃に通じるチューブを抜いたようで、とうとう両手を紐で拘束されるようになりました。母の最後と同様、恐れていた状態になりました。同じ縛るにしても、多少紐を長くして、少し自由が効くよう、看護士さんに頼みましたが、頻繁にメンバーが替わるので、全く効果はありません。
あるとき、何度もお願いしたのに、両手を広げて、極端に短く紐で縛られているのを見て、思わず「こんなに自由を奪われたら、死ぬしかなくなるではないか!」訴えました。ある程度の拘束はやむを得ませんが、縛り方があると思うのです。管まで手が届かない範囲で、少しでも自由が効くようにする配慮があってしかるべきです。
看護士さん達のQCサークルのようなもので、検討して貰いたいものです。ゴムの紐ではどうだろうか?などと自分でも色々考えてみましたが、なかなか難しいようです。問題が起きるのは配慮が足りない看護士のときのような気がします。
「生かそうとしているのか?
殺そうとしているのか?」
涙ながらに
父の拘束を少し緩めるよう
看護士に求める
「警察を呼べ!」
混濁した意識の中
拘束されて
うめく父
他に方法はないのか!
●老人の人権?
老人の場合、何をするにも本人の意志は考慮されず、どんどん物事が進んで行きます。我々家族ですら、本人の意志をほとんど考慮しないで、治療を進めて行っている気がします。
あたかも
神経がないかのごとく
無造作に
鼻へ管を差し込まれる
老人達
本人の意志など
はなから
無視されて
検査に回される
老人達
●生体離脱
体力のない老人の場合あまりに症状の変化が大きく、また人格が軽視されるため、介護する家族も気が滅入って疲労困憊になります。私の次女も「危篤」と言うことで急遽ベトナムから帰国し、そのまま看病してくれていますが、看病している本人もストレスが溜まるので、半日自動車学校へ通わせるようにしました。娘は三ヶ月間、毎日付き添ってくれました。
長期入院
介護者の
魂も
生体離脱
する
●超高齢手術
多少は症状が好転しているのかと思っていたら、改善していないと言うことで、腸の開腹手術を行うことになりました。詰まったままではどうにもならないので、手術に同意しました。「全身麻酔なので94歳の高齢では、麻酔だけで死ぬかも知れません」と言われながらの手術となりました。
手術前から虫の息なのに、手術によって更に悲惨なことになったらどうしようと心配しましたが、幸い腸の癒着だけだったようで手術は成功しました。私は立ち会えませんでしたが、姉といとこ達も応援に来てくれました。東京から神・仏・亡き母に祈ったり、"気"を送りました。無事手術は終わって父には「よく頑張った」と拍手を送りたい気持ちです。
「超高齢ですから
全身麻酔だけで死ぬかも知れません」
本当に手術で助かるのか?
ベッドを空けたいだけなのか?
勘ぐりながら医師の説明を聞く
●リハビリ
手術後は、腸の通りが良くなることで、劇的な回復を期待していましたが、実際は蚊の泣くような声で時々反応するのみで、ほとんど昏睡状態でした。それでも早く退院させるためにリハビリが始まりました。
目も開けられないほど
衰弱した老人に
昼はリハビリ
夜は拘束
どちらへ行けば良いのか!
ナースステーション内で
座わっている練習をしている父
手を振っても気付かない
代わりに手を振って応える
余所のお爺さん
●悲観
一進一退ながらもほんの少しづつ意識が戻って来ました。時々薄目を開けるようになりました。それと共に入院前の自分と全く違うことが認識できるようになり、「俺はもう駄目だ!」と悲観するようになりました。我々も折角手術したのに駄目かも知れないと、悲観的になって来ました。
手を握り締め
「お前には本当に世話になった」と
散々泣かせておいて
翌日は
リハビリに励む父
●食べられない
一ヶ月ほど食事をしていなかったためか、手術後もほとんど食事を食べられません。小さじ数杯分しか食べられません。もう点滴もしていないので更に痩せて来ました。
親戚を含めて、口に合いそうなものを持ち込んで、懸命に試してみましたがほとんど手を付けません。みそ汁なども作って持って行きましたが、やはりほとんど手を付けません。
ただ、リハビリだけは理学療法士が声を掛けるとやる気を見せます。普段は「眠い!寝る!」一辺倒なのに、理学療法士が介助すれば起きあがろうとします。
「膝を揉んでくれ」
骨を揉むのか
皮を揉むのか
棒のような父の足を見て
一瞬考える
普段は昏睡なのに
リハビリだけは
しゃんとする父
ひとり暮らしの
恐るべき本能
巧みに
リハビリに誘い込む
理学療法士達
祈りながら
観察する
ずっと
小さじ数杯の食事しか摂れないのに
突然歩行練習する父
家に帰りたい
老人の執念
●転院
泣いたり笑ったりしているうち、手術後二週間が瞬く間に過ぎ、転院となりました。何だかんだ言っても、大病院の看護体制は至れり尽くせりです。看護体制の手薄な転院先で父がやっていけるのか心配になります。
うまく退院出来たとしても
また同じ苦しみを
味わうのが
見えてしまう
老いの厳しさ
●ガウン&サングラス
二週間が過ぎて、親戚に確保して貰った老人病院へ転院となりました。当日は転院先の看護婦さんが迎えに来てくれました。多少見栄っ張りの父は、ガウンと薄い色のサングラスを掛けて待ち受けました。迎えの看護婦さんによれば、重症の老人がそんな格好で転院したのは初めてだそうです。
転院後も食事は相変わらずほとんど食べられず、とてもリハビリの状況ではないのですが、我々の意向と本人の意志もあり、毎日数メートルの掴まり歩きの練習をして貰うようにしました。
●何で死ねん
父は一日数メートルの歩行練習をしながらも体力の回復が遅いのに絶望し、「俺は何故死ねんのか?」などとこぼすことが多くなりました。最後までひとり暮らしが出来るはずもありませんが、歩けなければどうやって暮らして行けば良いのか分からないのでしょう。助けて良かったのか分からなくなって来ました。
●一時帰宅
気分転換のため、数時間外出することにしました。母の時と同様、車で裏山を巡って実家に連れて帰りました。この時のために、寂しくなった庭にパンジーを植えておいたものを、車内から見て喜んでおりました。家に入るよう促すと「入らん」と断りました。空き家になって寒々として来た自分の家に入りたくなかったのでしょうか?
●旨い物を食わんと死ねん
食欲の無かった父の食欲が突然回復しました。一旦食欲が出ると今までの反動で、急に「あれを食べたい、これを食べたい」とうるさく注文を付けるようになりました。買って来ないと血相を変えて怒るようになりました。
見舞いで
お祖父ちゃんのジュースを飲んで
本気で怒られた娘
「ニューエスも怒ったね」
愛犬の想い出に花が咲く
●リハビリパンツ
病院や施設に入った場合、直ぐオムツを宛がわれますが、大抵は布か普通の紙おむつになるかと思います。父の場合は、おまるに座ったとしても、自分で上げ下げ出来るよう
リハビリパンツと呼ばれるパンツを自前で用意しました。
たまに漏らしても、基本的に自分の意志でオシッコやウンチを出せるようにしておくのが、寝たきりにならない基本のような気がします。昼間はともかく、夜間には人手がないので世話をして貰うことは出来ません。
●命より大事なもの
「刺身を食べんと死ねん」と言う父のため、私の娘と刺身の準備をして一時帰宅させました。「お前はケチだから安い刺身を買ったんじゃないか」などと要らぬ嫌みを言われながら(何かとお金がかかるため、安いものを買っていたのは事実です)、実家に連れ帰りました。
まだよろよろ歩きですが、連れて帰るや否や、一目散に自分のお金を隠してある所へ行き、私が近づくのを拒否してお金を確かめていました。老人だけの生活では、お金は命の次ぎどころか命以上に大切なものなのでしょう。
●老人病院の正月
父の世話になっている長期療養型の病院にも正月が来ました。何とか外泊出来そうなので二泊三日の外泊としました。実家の夜は寒いので心配でしたが、無事過ごすことが出来ました。私の姉たちも集まって皆でカルタに興じることが出来ました。
父は耳が遠いので、父にカルタを読ませ、私たちがカルタを取るのを競いました。父はやっとカルタが読める状態でしたが、何度かやった後「自分もカルタを取りたい」と言うので、父には先に文を見せ、その後読み上げて皆とカルタ取りを楽しむことが出来ました。
正月を過ごして病院へ戻ると、同じ病棟の老人全員がホールで正月番組のテレビを見ていました。自宅へ帰ることが出来た人はほとんど居ないようで、皆非常に寂しそうな表情をしていました。
老人は、ある程度しっかりした人でも一旦入居すると、自分の意志で自宅へ帰ることは出来ません。家族が迎えに来てくれなければ全く放置されたままになります。田舎の施設では近くに家族が住んでいるだけに、帰宅を祈っていた老人の心に、大変なダメージを与えることになります。
●姥捨山
父と同じ病棟に、いつも話しかけて来る九十二歳のお婆さんがいました。このお婆さんは「ここに捨てられたと思っていたけど、やっと、そう思ってはいけないと思うようにした」と言っておりました。
楢山節考(ならやまぶしこう、深沢 七郎)
と言う本に、七十歳の冬が来ると"楢山参り"と称して、山奥の楢山へ口減らしのため棄てられる老人の物語があります。
母を捨てるのを躊躇する息子を叱咤激励し、自ら雪の降る山に置き去りにされる老母"おりん"の悲しい話です。現在の老人も場所こそ違いますが、気持ちは「家族に迷惑を掛けてはいけない」と"おりん"と同じ思いで施設に居るのではないでしょうか。
●特別養護老人ホーム入居
父の入院は二つの病院を通して約半年となりました。そろそろ退院を迫られるなと、心配していたところ医師から、「同居なら退院出来ます」と退院を促されました。最後は私が単身で面倒見ることを考えて来ましたが、父の体力の低下が著しいのと、私が介護に専念すれば経済的にやって行けなくなるので、急遽転出先を探すことにしました。
あちこち探していたら、近くの特養で偶然空きが出来たと言うことで、頼み込んで受け入れて貰うことが出来ました。半年ほど前に念のため申し込んでおいたのが、功を奏したようです。母の最後は老人保健施設でしたが、老健施設ではほとんど生活面で構ってくれず寂しい思いをさせたので特養を中心に探しました。特養は多少なりとも家具などを持ち込めるので、この点は老健施設より良いようです。
入居審査に先立って面接などがありましたが、入居時の健康状態も判断基準となったようです。大きな持病があると入れないようです。特養に入るのも健康でなくてはならないのかと驚きましたが、受け入れる側からすれば当然かも知れません。やはりどんなに歳を取っても健康でなくてはいけません。
●特養入居準備
入居に当たっては、テレビ、机、椅子なども用意し、生活感を持てるようにしました。テレビは大音響にして皆に迷惑をかけないよう、ベッドの端にスピーカーを付けました。
新聞は当初、共用エリアのものを読んだ方が交流があって良いかと思いましたが、他の人も見ていて、スムーズに見れないようでしたので、朝刊のみ定期購入することにしました。少しずつ内容も読むようになりました。
●虚脱感
うまく特養に入れて半ば「やれやれ一息入れられるか」などと安易に思っていのですが、一ヶ月もすると気が滅入って来ました。当然ですが、父は特養に入っても食事と入浴以外やることがなく、ボッーとしているからです。最初、病院より良いと思っていた父も、慣れるに従って「家へ帰って自由にしたい」と言うようになって来ました。
今まで必死で支えてきた父を、やることがない状態に追い込んでしまって、果たしてこれで良かったのかと、罪の意識すら感じて気分が落ち込んで来ました。日本の老人施設全般に言えると思いますが、設備や待遇は改善されて来ていても、老人にささやかな役割を宛がって、生き甲斐を与えるプログラムがないため、最終的には"終の棲家"には成りきれない状態と言えます。
生活の場だけをを提供するのではなく、生きがいを与えるプログラムが出来れば、日本人の老後感も画期的に改善されるのではないでしょうか。ゲームや歌だけではなく、それぞれの老人の過去の技術や特技を引き出すことは不可能でしょうか?手始めに過去の趣味や、特技、仕事(何が出来るか)などの経歴リストを作ることも良いのではないでしょうか。多分ボケたとしても介護者より詳しいはずです。
手間はかかりますが、老人に何でも相談すれば話しもはずむようになるのは間違いありません。介護関係の方がご覧になったら是非試して欲しいです。聞き出すだけでも元気が出るかも知れません。
施設には、出来ることは少しでも父にやらせるよう頼みました。具体的には以下のものです。簡単な体操と歩行練習は直ぐ対応してくれたようで、歩行能力と意識は凄く改善しました。
・お茶は出してあげるのではなく、飲みに来ないか誘う。できるだけ自分で入れさせる。
・古新聞回収は自分で台車に積ませる。
・リハビリ体操を出来る人で毎日行う。やれば職員と一体感が出ます。
●気分転換
父に何とか気分転換させてやろうと時々実家に連れ帰ろうとすると、こちらは益々忙しくなってきました。早朝6時頃東京出発、午後実家着、夕方まで実家で世話をし、翌日は又朝から昼過ぎまで連れ帰り、その間料理、買い出し、草取り、隣近所や親戚への挨拶をするなど、目の回るような忙しさです。
これを全て一人でやってトンボ帰りしなくてはなりません(交通費がかかるため、ほとんど一人で帰郷する)。本当は、気分転換しなくてはならないのはこちらかも知れません。しばらく前には過労でダウンしました。
●怠け心
ここ何年かは父の健康状態が良いときは隔週、悪いときは毎週帰郷しておりましたが、特養に入居して生命の心配はなくなったため、少し怠け心が出て三週に一回の帰郷にしてみました。これなら自分のとと両立出来るのではないかと思いましたが、三週だと如何にも長く感じられ、父に悪いような気がしてこれまたストレスが溜まります。
父は、隔週でも一日千秋の思いで待っているのが分かっているので、こちらが落ち着けなくなります。私が行かないときも私の姉たちが時々行ってくれていますが、実家に連れて行くまでの面倒は見切れないようです。
●神棚
父に何か毎日やれることはないかと考えているうち、かつて毎日神棚を拝んでいた父のため、神棚を用意すれば一つでもやることが出来るのではないかと、小さな神棚を探しました。由緒あるお札を用意した方が良いと思い、飛鳥の三輪山まで行って、古代人の信仰が厚かった大神(おおみわ)神社のお札を貰ってきました。
ちなみにこの一泊二日の小旅行は、父母の介護のため、田舎へ帰る以外どこへも行ったことがなかった私の十数年振りの旅行でした。お札以外に焼き物の小さなお地蔵様も用意し、父が喜んでくれるのを期待して持って行ったら、意外にも「引き出しの中へしまっておいて」と全く関心を示しませんでした。
次に帰郷したときには神棚にお賽銭が乗せてありました。父の死後、父は「俺は早く死ねるように神様に祈っているんだ」と言っていたと姉から聞いてショックを受けました。
「俺は本当は
早く死ねるよう
神様に祈っているんだ」
思いがけない
父からの不意打ち
●面会記録
私のいとこ家族が頻繁に父を見舞ってくれていることに常々感謝しておりましたが、特養の面会記録を見て、ほとんど毎日欠かさず激励に来てくれていることが分かりました。
大抵の人は自分のことや家族のことで精一杯であり、他人のために時間を割くことはなかなか出来ません。本当に有り難い思いで一杯です。いとこ家族の幸せも願わずにはおれません。
●雑草取り
我が家も主が不在となり、僅かばかりの畑も雑草の生え放題となってきました。帰る度に猛烈な勢いで育つ雑草と格闘していますが、「いずれ本当の荒れ放題になるな」と考えながら草を取るのも辛いものです。
●最後の帰宅
五月連休後に三泊四日で帰宅させました。特養で歩行練習をしてくれたようで、病気になって以来一番意識がはっきりしておりました。今回は私が自己流の料理を朝・昼・晩と作りました。出汁で誤魔化して味噌汁も作りました。
父には米をとぐ仕事を二回分担して貰いました。ぎこちないながらちゃんと洗っておりました。「こここまでやって貰えば親父も本望だろうな」と頭の片隅で考えながら父と食事をしました。食欲は旺盛で、私とそれほど違わない量を食べておりましたが、動物のようなガツガツした食べ方はなくなり、配膳が終わるまで私を待っていました。
いつも気に掛けてくれているいとこ達を訪問したり、あちこち連れ出しました。また、僅かばかりですが庭の草を取ったりしました。「うちは良いなあ」と言いながら草を取ったりしていました。しかし、少しの移動でも多少呼吸が荒くなっていたので、ひょっとして悪くなっているのではないかと気に掛かりました。
老人は
景色を取り込み
景色と同化して生きる
切り離すことは
できない
「この家で
死にたい」
自宅は
老人の
命の一部だ
最終日、「帰りたくない」と言われるのを恐れていましたが、何も言わず施設へ帰ったので安心しました。帰京するため父に別れを言い、父の部屋から出てホールを通り過ぎるとき、父の部屋を一瞬振り返ったら、父が戸口に立って無言で手を振っていました。何か頼りなく、小さく見えましたが、今までなかったことなの一瞬アレッと思いました。
●父逝く
父と別れた翌々日の夜、施設から「お父さんが倒れて意識がなくなったので救急車で病院へ運びます」と連絡がありました。洗面の前で転倒し、二時間ほど様子を見ているうちに意識がなくなったと言うことでした。
あまりに突然の話で驚きましたが、夜中に急行した姉の話だと土気色になっていると言うことで、私も父の最後を覚悟しました。そして翌朝早々帰らぬ人となりました。私は、"やることはやった"と言う気がしていたので、半日会社へ出勤して引き継ぎをし、父には夕刻再会しました。死因は急性呼吸不全で原因は肺塞栓でした。
思い入れに
肩すかしを食わせて
父
突然
逝く
一時帰宅した実家で死なないで、施設で倒れたのは父の気遣いだろうと感謝しました。また、一人暮らしの老人にとって、誰にも気づかれることなく自宅で死ぬことを想像することは、大変な恐怖と思いますが、一応人目のある施設で倒れ、心配されながら死ねたことは本当に良かったと思いました。
私が近くで面倒を見ていたら、もう少し生きられたのではないかとの思いは残りますが、父が逝ったのは、我々に一息入れさせるための、父の気遣いではないだろうかと思います。この一年の仮死状態からの快復も、我々を喜ばせるための父の精一杯の努力ではなかったかと思います。
●女性に優しい人
実家に着くやいなやバタバタと葬儀の段取りをし、通夜となりました。父の居た特養でも皆さんが来てくれて、父のために涙を流してくれました。また以前面倒を見てくれていた訪問看護婦さんや、ヘルパーさん達も来てくれて涙を流してくれました。
ヘルパーさんの一人は関係が切れた後も、病院へ時々見舞いに来てくれていたようで、本当に頭が下がりました。老人と心から交流できている人は、本当に素晴らしいと思います。老人も敏感に見抜いて信頼を寄せています。父は女性に優しいタイプなので人気があったようです。
●喪失感
父には十分やることをやってやったので、それほど悲しまないのではないかと思っていた私ですがそうではありませんでした。初七日まで一人で実家に残って後始末をしながら、父の遺影を見ていたら、95歳まで一人で生きてきた健気さと、寂しい思いをさせて済まなかったとの思いで涙がとまらなくなりました。そして、大変な虚脱感・喪失感に襲われました。
遠方から四六時中心配し、幼子のように手間暇掛けて面倒を見てきたので、喪失感は当然かも知れません。どんどん成長する子供と違い、支援が必要になる一方の高齢者の方が、ひょっとすると関わりは濃いのかも知れません。長く老親介護を続けてきた方は、皆さん大きなダメージを受けているのかも知れません。
正直だけで
生きてきた
父の遺影の前で
一人
自問する
一人暮らしの父も逝き
茫然自失の中
高齢で母を看取った
父の悲しみを
知る
父の気配まで
消さぬよう
電気を
点けたまま
田舎を後にする
●コーラス
父が亡くなってから、コーラス講座に通い始めました。胸にポッカリと穴が空き、何かしないと落ち込んでしまうのではないかと思ったからです。中高年の女性達に男一人混じってしばらく続けました。後で考えると迷惑だったこと間違いないと思いますが、大いに癒やされました。歌っていると父母や遠い昔の世界に繋がっているような気がしました。
E・A・グロルマンの愛する人を亡くした時
に「親が亡くなると、人は過去を失う」と言う有名な言葉があります。確かに懐かしい記憶の多くは親子の記憶であり、その記憶そのものの父母の死で、過去を失った気持ちになります。それが唱歌を歌うことによって蘇ってくることを実感しました。
母・父共に、周りの皆さんに見守られながら生き、逝くことが出来ました。特に九十五歳と高齢の父は、周りの皆さんの支援無くしてここまで生きることは不可能だったと思います。
どんなに心細かったか知れませんが、周りの皆さんに自分の親のように支えて頂き、本当に幸せな最後だったと思います。私も苦しい遠距離介護の十年でしたが、悪戦苦闘のお陰で、両親との思い出を永久に胸に刻むことが出来るようになったと思います。
周りにも
世話を掛け
絆を
つなぐ
最後の親心
心配は
消えても
面影を追う
今年も
暑い夏
亡き父の
大好物だった
鰻重を
父に成り代わって
堪能する
主(あるじ)を失った
実家のあばら屋に
凛として残る
明治生まれの老人が
健気に生きた証し
●ご訪問ありがとうございました。常にほんの少しだけ先回りし、老人の残された機能を引っ張れるだけ引っ張る私の介護の様子が(先の見通しもなく、ただそうして時間を稼ぐしかなかった。父母もそれに合わせて頑張ってくれた)、少しでも皆さんのお役に立てたら幸いです。
●文才の無い私は、HP更新に時間がかかり、面倒に思いながら作って来ました。しかし実際には、HPや詩を作ることによって自分自身癒され、また時々皆さんから頂くメールにも励まされてきました。
五行歌にすることも、それぞれの場面を鮮明に記憶することになり、何度も、何度も涙を流して来ました。悲しみの中にのめり込みながら、それによって気持ちを解放出来たような気がします。
老いはある日突然に
訪れるものではなく、
そこまで生きて来た結果として
人の前に徐々に
姿を現すのです
(黒井千次)
死は前にあるのではない
人生の過去に属する部分は、
既に死の手に
渡っている
自分の時間を生きよ
(セネカ)
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