母の遠距離介護日誌
4年に及ぶ母の遠距離介護の様子を紹介します。実際の介護は90歳に近い高齢の父が行い、私は父を支えました。
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母の遠距離介護五行歌…詩のみ
父の遠距離介護五行歌…詩のみ
「もう治らん!」
「いつ死んでもおかしくない!」
医師の宣告に
何度も何度も
泣きながら東名を走る
介護の模様を順を追って記録してみました。
今まで病気らしい病気をしたことがなかった母が「胸が苦しい」と突然入院となりました。病気は膠原病と言うことで、肺が真っ白になっていました。母は78歳と高齢なので、本人が苦しむ検査や治療はしないように医師に頼みました。結果として病名を確定できないまま中途半端な治療をすることになりました。
母は入院すると、突然の入院のショックからか、隣のベッドの人工呼吸器の音を、「雨の音がする」と怯えたように言うようになりました。また最初は父のことを心配していたのに3,4日で気にしなくなり、電話の掛け方も忘れてしまいました。老人の入院につきものの”せん妄”かと思っていましたが、痴呆が始まったようでした。
父は頼りにしていた母の突然の入院で、家の裏の畑でよく泣いていましたが、意外にも母の汚れ物の洗濯や毎日の見舞いを甲斐甲斐しくしてくれました。
隣のベッドの
呼吸器音に
おびえる
意外な
母を見る
母の病気が難病の部類であったせいか、医師が「この病気は死なにゃあ治らん」と本人の前で何度も言うのにはビックリしました。悪気はないと思いますが、この地域は大病院が少なく、競争がないこともあって、患者に優しくない医師が多いです。
母もすぐに「まあええ(もう死んでもいい)」、「まあええ」と口癖のように言うようになりました。医師とまともな話ができない老人には、優しい言葉が必要かと思います。
免疫不全の病気と言うことで、治療には副腎皮質ホルモンが使用されました。にわか仕込みの私の知識と、医師の薬投与の仕方が少し違うような気がして、安心して任せることが出来ず、専門書をあれこれ買い込んで読みあさるようになりました。こうなると、その他の薬も何を飲まされているのか気になり、ゴミ箱の中のカプセルの殻などを調べて、薬を確認するようなことになりました。面と向かって質問できない雰囲気、情けないですが仕方ありません。
「何を
飲まされているのか」と
ゴミ箱を漁り
カプセルの
記号を調べる
入院のショックもさめやらぬ、入院から二週間ほど経った頃から暗に退院を求められるようになりました。そして、一ヶ月後には退院を通告されました。レントゲンを見ると肺は真っ白で、症状は悪化しているのに、「病院経営上の都合もありますから」とまで言われてしまいました。
大病院では医師も歯車のひとつであり、仕方がないでしょうが、患者側としては何とも割り切れないものです。”なるほど、これが日本の医療の現実なのか”と納得する部分もありますが、こちらとしては「これからどうしたものか」と途方に暮れることになります(但し、この医師は忙しい中、よく説明に時間を割いてくれました)。
母が入院した病院は、この地域最大の1000人規模のベッド数の大病院で、病院の玄関には「患者の権利宣言」が高らかに掲げられています。この病院は戦前、地域住民の様々な迫害の中、結核患者救済に尽くした病院で、宣言を心強く感じていた私には大変なショックでした。
一ヶ月ばかりの入院でしたが、母はすっかり目の輝きもなくなり、ぼーっとした感じで退院しました。肺の酸素吸収能力が不足しているため、めまいがすることもあり、退院後は家の中だけの生活になってしまいました。
父から「おばあさんの足が腫れている」と電話がありました。最初、単なる足のむくみかと思いましたが足の周長を計らせたら倍ほど違うので、あわてて入院させました。大静脈が詰まり、もう少し遅れたら足を切断しなくてはならないところでした。多分、副腎皮質ホルモンの副作用と、寝たきりの入院生活の副作用のせいかと思います。
静脈血栓は血管が詰まって組織が腐るか、溶けた血栓が肺に詰まるとそれはまた危険で、命を落とすことになるようです。幸い二週間程入院して退院となりました。
年初から母に39度前後の発熱が続きました。父が、母を膠原病で入院していた病院の外来で何度か診察させていましたが、少しも熱が下がらないとのことでした。今回、私が母を連れていくと、内科の医師が大した診察もせず「熱冷ましでも飲ませておけばいい」と冷たく言い放ちました。
挙げ句の果てに「うるさいのはあんたかね!」。入院していた呼吸器科から何か聞いていたのでしょう。どの社会にも、どうしようもない人がいるものです。転院するとまた検査漬けになるのが辛いですが、仕方がなく転院を決めました。
急遽、家から更に遠方の総合病院を受診することにしました。今度は"膠原病友の会"に相談し、友の会の顧問の医師に診断して貰いました。診察を受けたところ"肺炎"との診断で、即日入院となりました。「この状態で肺炎か分からないのかねえ?」がその医師の言葉でした。
この先生は"本物"の医師のせいか、親切・丁寧な診断です。聴診もどんな音も聞き逃さないと言った感じで、"ああなるほど、聴診とは本来こうやってやるものか"と感心しました。手指の変形の触診も丁寧に母の手に触り、「ああ、これは病気の手ではないです。苦労した手ですね」などと、本当に泣かせてくれる先生でした。どの道も本物の人は親切です。この医師に出会ってから、病気や薬のことをあれこれ心配する必要がなくなりました。
※老人の場合、咳をする力が弱いため、肺炎を起こしていても全く気づきません。「コン、コン」と言った少しの咳でも病院に連れていく必要があります。
3度目の入院となる今度の入院は4ヶ月ほどになりました。父の付きっきりの介護にもかかわらず、母は医者や看護婦さんの個々の顔を全く区別できないようになりました。
私は、痴呆を心配してケースワーカーに時々相手になってくれるよう頼み、その方が時々励ましてくれましたが、その方に対しても、やはり誰なのか識別できないようでした。痴呆外来のある同じ市内の医療センターでは、看護婦さん達が積極的に入院患者に話しかけ、痴呆の防止に努めてくれるそうですが…。
この前は迷わず戻って来られたが
今日は大丈夫かと
便所への通路を
何度も窺って待つ
大病院の待合室
入院中の母から昔感染した結核菌が検出されました。老人の大半は保菌しているようですが、一旦菌が見つかると、伝染性がなくても以後の老人施設などの付き合いが非常に難しくなりました。
法定伝染病ですから、隠しておくわけにもいかないですし、レントゲンを見れば膠原病特有の間質性肺炎で真っ白になっているのですから、町医者も迷惑顔だし本当に困りました。周りに迷惑を掛けてはいけないので、念のため退院後も自主的に毎月一回結核の検査を受け続けました。
転院しても
いつのまにか
人気者になる
高齢
おしどり夫婦
肺炎、結核の入院は4ヶ月で退院になりました。母は退院後してしばらくしても結核の強い薬のせいか、ほとんどボーッとしておりました。そして、たまに私の姉が電話しても誰か分らなくなってきました。
この頃から、とにかく何らかの役割を与えなくてはいけないと、食後の片付けと洗濯物干し・取り込みを母の仕事としました。刺激を与えるため、私自身も隔週で帰郷するようにしました。電話も週二回ほど掛けるようにしました。
母の
ユーモアだけは
なくならぬよう
帰りのバスを気にしながら
一緒に遊ぶ
私は仕事で大きなノルマを抱えており、まさに駆けずり回っていましたが、その最中にふくらはぎの筋肉が切れる"肉離れ"を起こしてしまいました。駆けずり回っていたことが直接の原因ですが、介護の精神的、肉体的ストレスが筋肉を固くしていただろうと思います。
田舎へ帰れないことを心配しながら治療し、1ヶ月ほどして田舎へ帰ってみると、母の痴呆が進んでいるようでした。老人は、頼りにしている人が怪我や病気をしたりすると心細くなり、痴呆が進むような気がします。
母は病気になって以来、寒さに極端に弱くなり、冬場にはほとんど動けないほどに衰弱するようになりました。
しかし、冬場を乗り切ると別人のように体力、気力とも快復しました。その母も、とうとう自分が娘の頃亡くなった母親がそばにいるようなことを言うようになりました。
母は、実の母親が早く亡くなって、父親が再婚したため、実の母親に会いたい思いが記憶をたどって出て来るようになったようです。毎日電話を掛けて、少しでも母に刺激を与えるようにしました。
「おばあちゃん
便座に座れなくなった!」
泣きながら母を抱きかかえ
用をさせる
春休み帰郷中の娘
※私が地元にいれば、”痴呆は治る”の著者の浜松市の金子満雄医師の病院に連れていきたかったのですが、病院が遠方なのと、連れて行こうとすると母が熱を出したりして果たせませんでした。
そろそろ東京に戻らなくては、と思う時間になって母が風邪で39℃の高熱を出しました。休日なので、事前に了解を得た後、近所の老人病院で診断を受けることになりました。
2時間ほどかけてX線撮影までした後医師が、「私は今日は直ぐに帰らなくてはいけないから」と遠方の大病院への紹介状を書いて、今から行くように言われてしまいました。
老人病院での死亡が多発している時期だったので、肺が真っ白な母はやっかい払いをされたのでしょう。ちなみに紹介先の病院は元々母が毎月通院している病院で、車で片道一時間以上かかり、また予約してあっても数時間の待ち時間がかかる病院です。
重症の母をどうすれば良いのかと途方に暮れていたら、たまたま家に来た人が町内の医院に話を付けてくれて、何とか診察を受けることができました。医院なので入院は出来ませんでした。そのまま介抱してやりたかったですが、明日は会社があるのでやむを得ず高齢の父に任せて東京へもどることにしました。
発熱した母を
九十歳の父に託し
明日の会社のため
東京に戻る
親不孝を泣く
だんだん痴呆の症状が進んで、その場に居ない人が居るように訴えるようになりました。また、「どうしてここに同じ家があるのか?」と他の場所にも今の家と全く同じ家庭があるようなことを訴えるようになりました。
母は冬場は活動力が落ちて何もできなくなります。テレビを見ているだけの状態になりました。ヘルパーさんに大正琴やカルタ、ジグソーなどで積極的に遊んでもらうようにしました。
また春が来れば
きっと蘇る
母の生命力
春よ
早く来てくれ
春の訪れで
見事に
元気になる母
自然の偉大さを
実感する
心労のためか、父が路上で倒れて救急車で運ばれる事態になりました。ほとんど呆けている母ですが、このときばかりは警察からの連絡を受け、隣家に知らせました。
また、普段は全く電話をかけられないのに、私の姉のところにも連絡しました(番号は大きく書いてあります)。痴呆であっても何かことがおこると一瞬は正常に戻るようで、感心しました。
いよいよ我が家にとって最悪の事態到来かと思いましたが、幸い父の体に異常はなく、介護に復帰してくれました。父が倒れた場所は、数キロ離れた場所のお地蔵様の石段を下りた所で、父はそこまで車を運転して行き、お参りした直後倒れました。
このお地蔵様の石段はかつて父が自費で整備したものです。父は母が元気になるよう何度もお参りしていました。父が助かったと言うことは御利益があったということでしょうか?本当に神に感謝したい気持ちになります。この後、父はやっと車を運転するのを止めました。
かつて
父が手入れをし
母を何度も助けてくれた
お地蔵様に
父もまた救われる
”ぼければ何の苦労もない”というようなことをよく言いますが、これは大間違いです。痴呆の本人は今まで確固としていた物が全て不確実となり、何を頼りに考えたらよいか大変な苦しみに苛まれるようになります。母を見ていて、痴呆の怖さがよく分かってきました。
母の現在の痴呆の状態は下記の通りです。
・家族関係の認識が混乱している。誰と誰が自分の子供か分からない。但し、直接会って話していれば適当に話を合わせるので正常に感じます。また、本当に分かっているときもあります。
・いないはずの人がその場に居るような気がする。自分の母親や孫達がそこに居るような気がする。
・今居るところが本当に自分の家か分からない。自分の家と同じ家がなぜあちこちにあるのかと考えて苦しむ。
・だんだん思いこみで話していることが多くなる。
・徘徊というほどではないが、一人で何かを思いこんで出掛けたことが3,4回あった。
・昔のことは良く覚えいるし、思い出す。
・簡単な編み物ができる。
・食事の後片づけと洗濯物を干すことを父に言われて行うことができる。但し、形式的。
刺激を与えるため、一日二回電話をして話をするようにしました。
母に電話したら、「ここに死んでいるのはわし(私)のお母さんかいねえ?」と言っているのでぎょっとしました。自分の母親が亡くなったときの記憶が蘇ったようです。
ボケの進行を少しでも遅らせるため、できるだけカルタをするようにしました。ボケていてもカルタを取るのは元気だったときと変わらず、サッと取るのにビックリします。
カルタを終えたと思ったら、「便所はどこだったかいねえ?」。・・・ウーンと言った感じです。
耳の遠い父が
読み
母と私が
競う
いろはカルタ
今日は、「今居る家が自分の家かどうか分からない」状態が顕著でした。お風呂も「今まで見たことがない」などと言っておりました。今後どうなるのか本当に心配になります。
手遅れとは言え、もっと何かやらせなくてはと思い、母に手伝いさせて味噌汁を作りました。火の扱いは危険でできませんが、野菜を切ることや、私に指図させることはできます。
早い時期から一緒にやれば良かったと悔やまれます。この点では父がマメ過ぎて、何でもやってしまうのが災いしたかな?とも思います。介護する方に精神的・時間的余裕がないと、一々やらせるのは難しいとは思いますが・・・。
ボケていても
起きあがるのがやっとになっても
自力で便所に行かないと
共倒れになることを
最後まで承知していた母
母を月一回の診察につれて行きました。空いている時間を狙って病院に行ったら帰る時間が遅くなり、帰宅したときは真っ暗でした。
家に帰ったらもう自分の家か分からないようです。健全な人でもそうですが、老人は暗くなるとよけいに混乱するようです。
次からは日中に行くようにしたいと思います。
父母共に二度目のインフルエンザの注射をしました。二人で二万円でしたが、これこそ補助をして貰いたいものです。
会社勤めをしていると、父母の起きている時間に連絡を取るのが難しいため、田舎に着信専用にFAXを購入しました。FAXがあることによって父母が混乱しないよう、台を作って紙だけ外へ出るようにしました。
※但し着信後、FAXへ切り替わる時間が短いと、老人があわてて電話のところに来るようになって危険です。普通の電話も呼び出し回数を多めにしないとないと、同様に慌てて電話に出ようとして危険です。
母が最初の退院した直後より、福祉センターのヘルパーさんに顔を出してもらうようにしました。最初の2年ほどは父母ともヘルパーさんに来て貰うことを受け入れなかったため、"老人世帯の巡回"を装って、血圧測定などの巡回だけをして貰いました。
母の体力が落ちてから、リハビリ的遊びを兼ねた体操をしてもらうようにしたところ、やっと親しみをもって受け入れるようになりました。最初は役場からのヘルパーさんで、あまり熱心ではないため、それが父母にも分かり、父母共に拒絶的でした。
二回目の入院後、二週間に一回訪問看護をしてもらうようにしました。主に血圧測定と痴呆の予防として頭の体操的なちょっとしたリハビリをしてもらいました。
訪問看護を受けるには医師の指示が必要なため、指示を出してくれる医者を探さなくてはいけないですが、この地域の医師は保守的で探すのに苦労しました。
現に困って頼んでいるのに「そんなことを考えるより老人病院に入れた方が良い」とか「継続して治療している患者でないと駄目」とか、自分の考えを押しつけて拒否する医師ばかりで、悲しくなりました。
訪問看護については父の期待度が大きかったこともあってか、信頼関係を築くまで行きませんでした。看護婦さんは医師の指示がないと動けず、中途半端にならざるを得ないことが原因かと思います。
母が熱を出し父としては不安で一杯のときも、何もしないで「はい、では帰ります」では残されたものは救われません。その場から医師と連携したり、薬を届けてくれるような生きたシステムの来ることを切望します。
先日、町の福祉協議会から父に呼び出しがありました。呼び出す方は何とも思っていないようですが、交通手段を持たない老々介護の家で4,5km離れた場所へ出かけることは容易ではありません。
大変なバリアになります。ちょっとしたことは、行政側から出向く配慮が必要なのではないでしょうか。交通手段もない80,90歳の老人に対して、気易く「来てくれ」と呼び出されては困るのです。
結核のこともあり遠慮していましたが、デイサービスを受けることにしました。しかし当日になると母が「わしは行かん」と頑として拒否しました(高齢者は思い通りになりません)。特に冬場は家から出ることを嫌がり全く行きませんでした。
やっとたまにサービスを受けるようになったのは亡くなる二年ほど前からでした。本人は、口では「ボケて何も分からん人ばかりだ」と、馬鹿にしたようなことを言っていましたが、行けば結構楽しんで来るようでした。
ヘルパーさん、看護婦さん達と連絡が取れるよう、介護連絡帳を作って訪問した都度メモを残してもらいました。私も帰郷した都度メモに書き込んで、たまにしか会うことのできないヘルパーさん、看護婦さんと帳面を通してお話しできるようにしました。
たまにしか会えない
ヘルパーさん達に
父母を頼む!
との一心で
伝言を残す
毎週のように帰郷していて、その度に母と一緒に食事をしており、"食事の量が減ったな"と思っていましたが、ここのところ小指二本分くらいしか食べられないようです。料理の味を変えてみても変わりないようです。私が帰郷したときだけの現象かと思って見過ごしておりましたが、父によくよく聞いてみると、ほとんど食べられなくなっているようです。
体重を量ってみたら32kgしかありませんでした。食事を受け付けなくなると素人にはどうしたらよいか分からず無力感、絶望感がつのってきます。父も一生懸命作った食事に箸を付けてくれないので無力感がつのってきたようです。
ふすま一枚
隔てて寝る
父母の静けさに
飛び起きる
夜の田舎の静寂
田舎の夜の
闇の中で
突然襲う
母の命が終わる不安
早く夜が明けますよう
慌ただしく遠距離介護をしていると、老人の体調の変化のあまりの激しさに翻弄されます。今日も安心しきって月一回の診療に近所の医院に連れていったら、いきなり"肺炎ではないか?"と遠方の日赤病院へ転院を奨められ、即入院となりました。
どうなって居るんだと言いたくなります。医者にしても、レントゲンを撮れば肺が真っ白になっているので、どこかに移したくなるのは分かりますが・・・。
貧しくても
心は繋がっていた世界と
豊かにはなっても
心はすれ違っている世界が
帰る向きで入れ替わる
7,8km離れたところにある日赤病院に入院し、三日ほどたったとき看護婦さんから「患者が落ち着かないので、夜間付き添いをしてくれないと拘束しますよ」、「夜間は看護婦が少ないんだから、付き添いをしてくれなくては困る」ときつい言葉で言われました。
今時、日赤病院で「拘束」などと言われたのはショックでした。看護する側の論理も分からないではないですが、老人が二三回廊下に出るのが本当に悪いことなのか、"ここはどこだ"と廊下に出てみるのは当然ではないでしょうか。
きついことを言うのは婦長で、若い看護婦さんの方は総じて優しいようです。看護婦さんは立場が弱いのできつい言葉になるのでしょうが・・・。
たまに母が「縛られた夢を見た」と言います。さては夜中に拘束されたかと疑ってしまいます。また、目を開けておれないような"トローン"とした目つきをしていることもしばしばで、こちらもやはり鎮静剤を飲まされているのかなどと、勘ぐってしまいます。
それでもこの病院はよい面もありました。この病院では毎食後、必ず入れ歯を磨いてくれていました。これはなかなか有り難いことです。親戚の看護婦さんに聞くと、病院で直ぐに鎮静剤を飲ませるのは事実のようです。
ますます体力がなくなり心細くなったのか、母は入院した直後から「あれをして」、「これをして」とひっきりなしに言うようになりました。
我が家で最も人間が出来ていると思っていた母の余りの変わりようにびっくりしました。痴呆が進んだせいでしょうか。残念ながら、必死で看病する父への思いやりも、ほとんど無くなってきているようです。
それでも何とか笑顔だけは消させないようにと思っておりましたが、入院翌日にはもう笑顔を作る余裕が無くなったようです。ぎりぎりのところで保たれている老人の衰えは、あっと言う間だなと思い知らされます。
毎日の見舞いを
ほとんど
面会所で
居眠って過ごす
疲労困憊の父
入院すると、何の薬を飲まされているのか分からなくなります。常識的に考えれば通院時より分かりやすくなりそうですが反対です。
薬局で聞くわけにもいかず、入院していては薬の量を加減することができないので心配がつのります。高齢者にとっては、明らかに濾過不可能な量を飲まされていると思いますので・・・。
再度の入院の後、病院の再三の退院勧告を受けて老人病院を探しておりましたが空きがありませんでした。つてを頼りにあちこち頼み込んで、やっと今日転院となりました。
やれやれ助かったと思いながら、老人病院の母のところへ行ってみると、情けない顔をして「わしは捨てられた!」、「どうして椅子に縛るのか!」としきりに言っており、またまたショックを受けました。
意識もうろうとしていても
病院とは違う
雰囲気を
察して
騒ぐ母
一ヶ月ちょっとの入院で、痴呆も更に進み、周りへの関心もなく、笑顔もすっかり消えてしまった母にかわいそうですが、仕方ないと諦めるしかありません。今まで頑張ってきたのに果たしてこれで良かったのか、もう2,3ヶ月なら在宅介護可能ではなかったのかなどと、考えずにはおれません。
「この家で
死にたい」
自宅は
老人の
命の一部だ
東京へ帰る前に母のベッドを見たら、全周手摺りがしてあり、降りられないようになっておりました。施設は事故の心配をしていると思いますが、「用を足したくなったらどうするのか」、「寝たきりの一歩手前の老人を柵で囲ってどうするのか」と本当に情けない気持ちになりました。
手摺りをはずし、母におまるで用をさせてから手摺りは外したまま帰りました。直ぐに元に戻されてしまうのでしょうが・・・。これが普通の老人施設の現状とは思いますが・・・。
後ろ髪を引かれる思いで東京に戻る途中、施設から電話があり、「徘徊があるので痴呆病棟に入れたい」とのことでした。老人にしてみれば何がなんだか分からない状態で混乱しているのにすぐこれです。この施設では痴呆病棟に入ると、家族が直接病棟に入ることが出来ず面会所でしか会うことが出来ません。
面会所でしか会えない施設では、病棟の中はどうなっているか分かりません。人として扱われていないのかも知れません。今回は一応私に問い合わせしてくれたので、痴呆病棟に行かないで済みましたが、老人問題は全く油断できません。
人格を認められていない老人は、直ぐ別の悪い方に話が進みます。大体、老人施設で老人が二三回徘徊して何が悪いのでしょうか?自分がどうなっているか確かめようとするのは正常な行動ではないのでしょうか。排便・食事の世話だけでで、一人一人に愛情を注ぐ余裕のない、日本の介護の現実を痛感します。
そもそも老人病院では、看護婦さんと違い、親身に世話をするのが好きでない人もいます。「わー汚い!」と大きな声を出してオムツを替えている人もいました。
※余談ですが、最近介護の判定に来た役場の職員が「私たちは施設の受付より中へは入れないことになっているので、中の様子は分からない」と言っているのには呆れました。それでどうやって責任を果たすのでしょうか?
老人問題は誰も直ぐに「明日は我が身」です。介護の質をあげるためには、病院内でもボランティアとの共存が必要なのではないでしょうか?身体介護は専門家が行い、メンタルケアの部分をボランティアが行うことがいいのではないでしょうか。本当はNPOなどが組織として関与するのが良いのかも知れません。
母の入った老健施設は母の生まれ育った実家の直ぐ近くです。母に窓から外の田圃を見せ、「分かるか?」と聞くと、「知っている。よくタニシを取りに来た」とはっきり記憶しておりました。
痴呆が進んでも、まだまだ正常な記憶も残っており、立派に人格があります。皆それぞれ人格があるのに老人は何故粗末に扱われなくてはいけないのかと納得がいきません。
老人は
景色を取り込み
景色と同化して生きる
切り離すことは
できない
とにかく母に元気を出してもらわなくてはと、懸命に「元気になるよう」また「徘徊しないよう」祈り、また東京から「気」を送って励まさずにはおれません。
その甲斐あってか私の姉が見舞いに行ったら、母が自分から見つけて微笑んだとのことです。祈ること、良くなるイメージの気を送ることは、結構馬鹿にできないのです・・・これで?何度も危機を乗り越えました。
今も父の健康、姉たちや子供の健康や成長などを祈っております。通勤時、電車から太陽が昇るのが見えるとき、心の中で太陽の方向に祈るようにしています。
毎日
東京から
念力で
治療に
参加する
母が病気に倒れて以来、近所に住むいとこには本当にお世話になっております。都会生活の長い私は根無し草のようになっており、既によそ者同然です。地域に根を張った親戚の存在は全く心強い限りです。
私より年上でほとんど交流のなかったいとこ達が何くれとなく世話をしてくれるのは、母と父が友好的に過ごしていたお陰で、父母に「よくやった」と誉めてやりたい気持ちです。田舎のいとこ達が献身的に面倒を看てくれるのは、私にはなかなか真似のできないことで、感謝の気持ちで一杯です。
実の子より
まめに見舞ってくれる従姉を
娘と間違える母
「正直なものだ」と感心しつつ
従姉に感謝する
母が施設に入って以来、我が家の面会は延べ数十回以上になりますが、他の面会人に会ったことがありません。
病院では各家族とも毎日のように来ていたのに、老人施設ではそうではないようです。老人が捨てられたような気になり、また無表情になるのも無理はないようです。どこかの時間帯で来てはいるでしょうが、これ程少ないとは思いませんでした。
愛に飢え
全員が
無表情な目を向ける
老人病院の
老人たち
こうなると、自分達だけが頻繁に面会に行くことも気を使います。父が面会に行くのを嫌がる風があったので変だと思っておりましたが、分かるような気がします。
それぞれの家族が顔を出していないと、施設に対する監視の目が行き届かないことにもなります。また、健康な人が出入りしないと、施設関係者が入居者に対し無愛想になります。
介護者が
暗くしているのか
老人達が
暗くしているのか
無表情な人達
数日前、父が面会に行ったら母が歩いているのでビックリしたそうです。お丸に座る以外立ち上がることもしなかったのに本当にびっくりしました。
「ああこうやって死んでいくのか」と思っていた母が、また歩けるようになるとは思いもよりませんでした。無理にでも椅子に座らせておくのが幸いしたようです。やはり寝ているのと、上から世界を見ているのでは全然違うのが理解できました。
とにかく、紙一重の差で寝たきりにならないで済んだ気がします。よく「踏ん張ったな」という感じです。会話も馬鹿に元気になり人が変わったと思うほどで、ほとんど虫の息のようだったのが嘘のようです。
老人病院の
無機質な夜に
耐えられるよう
少し人格を切り替えて
蘇った母
母が元気になって安心しておりましたが、今度は父の元気がなくなってきました。母が施設に入っていると見舞も自由にできない感じで、張り合いが無いのが原因かと思います。外出も何となく憚られるような雰囲気で、今ひとつ感情の交流ができないもどかしさを感じます。
とうとう父が怒りも込めて「おばあさんが死んだら俺も死ぬ!」、「お前らの世話にはならない!」などと言い出しました。先行きを考えたら無理もないと思います。
今日のところは「それが世話をかけると言うことだ!」などと反論し、気晴らしのために近くのフラワーパークに連れていったら元気を取り戻してくれました。
もう自分一人では
何もできなくなっている
現実に
怒りをぶつけてくる
高齢の父
気温が暖かくなるに従って母の調子は良くなって、とうとう自分で便所まで行くようになりました。そうは言ってもぽつんと座っている以外やることはないようで、こうなると家で暮らした方が良いのではないか、などと贅沢な迷いが出てきます。
ベッドにいるか、食堂で椅子に座っているかだけでなく、何らかの生き甲斐を与える工夫が求められます。例えばベランダや窓先などに各人の花や野菜の鉢をおいて水をやったり、眺めたりできるだけでも違うような気がします。現状では、花を持ち込むこともできない雰囲気です。
先日はじめて母を外出させました。遠慮しておりましたが、思い切って申し出てみました。自宅に連れ帰ると、施設に戻るときまた辛い思いをさせることになると思って実家とは別の方向に行きました。
しばらく時間を過ごし施設に戻ると、「ここ?」と、建物を見て納得できないようでしたが、部屋に入ると、「ああ家に戻ったねえ」と言っておりました。
終の棲家としてのプログラムの何もない老人施設に連れ戻さなくてはならないのが辛い一日でした(一部の優良な施設を除けば、まさに飼い殺しに近いのが、施設の現状かと思います)。
※介護関係の方がおられましたら、是非、入居者の名前を書いた鉢を一つずつも置くような施設造りをお願いしたいと思います。自分で世話ができれば少しは励みになると思います。家族に持参させても良いと思います。
母が施設に入ったので、老人の一人暮らしとなった父への巡回を役場に頼みました。月二回の巡回を有料でも良いのでして貰えないかと依頼しました。
すると役場では「巡回はokだけど入金口座がないので、一回200円のお金をその都度役場に持ってきて欲しい」とのことでした。何故200円を4,5キロ離れた役場に持って行かなくてはならないのか全く納得が行きません。
余程断ろうかと思いましたが、他人を受け入れるのに時間がかかる父のために、挨拶だけの関係にしろ作っておかなくてはと、強引に書留めで送金して訪問して貰うことにしました。
しかし巡回を頼んでも、老人を思いやる気持ちのない人達は、老人に直ぐ見抜かれ、良い関係が築けないので、数度の巡回で断りました。
孤独感から"長生きし過ぎた"との思いの強すぎる父に元気を出してもらうため、96歳で現役の大学生活を送る歌川豊国氏の"96歳の大学生"と言う本をインターネット書店から送付しました。
送付後、珍しく父から電話が入りました。本が届いた旨と、祭りの日に帰ったらどうかとの電話でした。送って良かったと思いました。
今日は母の三度目の外出でした。例によって家には寄らないで、家から離れた山の方へ車で連れていきました。恐らく何十年も見たことがない場所でしたが、昔の景色をはっきり記憶しており、「ここには水車があったね」などと言っておりました。
今日は何となく元気がなく、また衰えを感じさせましたが、二時間ばかり過ごして、施設に戻るため車で実家の前を通ったら急に「便所に行きたい」と言うので、10分ほど家に寄りました。
果たして「ワシはここが良い」と言い出したのでドキッとしましたが、何とか病院へ連れ戻すことができました。この一瞬の帰宅が母の最初で最後の帰宅となりました。しかし一瞬であっても、一度帰宅できて良かったと心から思います。
老人の
命の一部の自宅から
また
施設へ連れ戻す
一時帰宅の残酷
夏場だけなら何とか自宅で生活出来そうな気もしますが、仕方ありません
元気だった母が急に体力を落とし、寝たきりになりました。寝たきりになったら、食事もベッドでするようになり、本当の寝たきりになってしまいました。
父に聞くと、車椅子の割り当てがなく、食堂にも行っていないようでした。思い切ってケアマネージャーに「寝たきりになってしまうから」と、車椅子を用意してもらいました。病院丸抱えのケアマネージャーでは言いたいことも恐る恐るしか言えません。
折角車椅子を用意してもらいましたが、残念ながら、母の体力が落ち、車椅子を使うことはありませんでした。
体力低下が著しくなったため、かつての総合病院へ転院させるとの連絡が入りました。慌てて救急車に乗り込んだ父の話だと、もう死んでいるのではないかと思ったとのことでした。
しかし総合病院では積極的治療も難しいとのことで、即日今までいた老人施設付属の病院へ戻されました。何度も危機的状況を経験してきましたが、いよいよ先は長くないと感じられます。
老人施設に戻ると同時に同じ敷地の病院に移され、直ぐに鼻から流動食を入れるようになりました。同時に流動食用のチューブを抜かないよう、四六時中両手をベッドの手摺りに結わえ付けられるようになりました。
何とかならないのかと、見舞いに行くたびにほんの少し紐をゆるめ、手のマッサージをするようにしました。家族、いとこ達皆、可哀想そうに思って、そうしないではおれませんでした。
両手を縛られた母の姿に
涙しつつ
病院へ行くたび
気づかれぬよう
固く結ばれたその紐をゆるめる
そのうち、私たちが紐を緩めたせいでしょうか、二度ほど、チューブが抜けることが、あったようです。その後は更に強く縛られるようになりました。
何度かは、夜それをまた緩くしに行ったりもしましたが、これ以上緩めると、逆に母が苦しむようになると、私も諦めました。今の医療体制では、病院や看護婦さんを責めることはできないのでしょうが、人はこんな風に最後を迎えるしかないのかと、暗澹とした気持ちになります。
「縛った手が抜けて
管を外した」と
余計きつく縛られて
いるのを見て
母にわびる
固くかたまった手をほどき
庭の柿を握らせる
「覚えておるかね」
「わからん」
消え入る声でやっと答える母
ここまで来ると、私も母がこれ以上今のまま生きることを諦めざるを得なくなりました。とうとう神に向かって"母を早く楽にしてやってください"と祈るしかなくなりました。
毎日手を縛られていて母の衰えはひどくなる一方ですが、かろうじて意識はあって、ほぼ識別は付くようです。体の自由を奪われれば、意識がなくなっていくのは人間の防衛本能として当然であり、本人のためのような気がします。
手を縛られたまま
衰弱していく母に
ついに
早くあの世に召して
母を楽にしてくれるよう神に祈る
母が早くあの世に逝って楽になれるよう神社に行き、お守りを買いました。当然、「早くあの世に逝ける守りはない」と言うことなので、"福"とだけ書いてあるお守りを買いました。
午後、母を見舞うと、明らかに息づかいが荒くなっていました。「分かるか?」と言うと、「ウン」とうなずき、直ぐ眠りに入りました。いつもより、手足が冷えているなと思いましたが、顔はつやつやしていました(その後の私の知識では、この状態は点滴の量が過剰で、溺れた状態になっていると言うことです)。
夜喫茶店で仕事をし、10時頃家に帰ると、家の近くに親戚の人が大勢いるので、何事かと思って近づくと、母が亡くなって病院から帰って来るところでした(…携帯を忘れていた)。
病院のベッドの端に、早く逝けるようお守りを付けてお祈りしてから、何時間もしないうちの出来事に、夢をみているようでした。
外出から帰ると
がやがやと親戚の気配
「おばあさんが死んだよ!」
何かほっとするのが
信じられない夜
ぬくもりの
象徴だった
母が
どんどん冷たくなって行く
恐ろしさ
もう母なのか
母でないのか
分からなくなった人の
傍らに
一人添い寝する
いままで、田舎の葬式の手伝いには何度か出ていましたが、身内の通夜には出たことがなかった私は、棺に入らず戻ってきた母に戸惑いを感じました。
また、死装束を身内が着けるのにも驚きました。でもお陰で、昔からこうやって残された者が別れを惜しんだのだろうと納得がいきました。
父は、母に向かって何度も「おばあさん天国に行ってよ!」と言っておりました。父は、元々は大変な暴君で、母に散々苦労をかけていましたが、父のこの四年間の母への介護は頭が下がるものでした。立派に罪滅ぼしをし、父も間違いなく天国に行けるという確信を持てるものでした。
葬儀が終わり、父の落胆を心配しておりましたが、予想に反して「おばあさんは、まだこの家にいるよ。全然いなくなった気がしない」とニコニコして言うのにはびっくりしました。私自身も、寂しさを感じず、意外な感じがします。やれることはやってあげた安心感でしょうか。
死者が身近にいると言うのは哲学者であり歴史家でもある梅原猛が「日本人の魂」で書いています。亡くなった人の魂は、しばらく家や近くの裏山などに留まり、家族を見守っているとのことです。そして時間が経つと先祖達が待つ、この世とあべこべに作られた世界へ移ると言うものです。
ほんの少し前までの日本人は、実感を持ってこのことを感じていたと思います。私は、父にも母の死を受け入れ易いように、この本を読ませていましたが、本当に母が近くにいるように感じられるのには驚きました。
母の人生は、それこそ土方までして大変な苦労をしてきましたが、最後は家族や親戚、病院、介護施設の皆さんに支えられ、まずまず幸せだったと思います。
人は
呆けて
子供に還り
父母の待つ
天に行く
老親は
自らの死をもって
最後の
教えを
子に伝える
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